大泉の話

どもども、お久しぶりのほいみんです。

さて、アイドルオタクの前に、漫画オタクなわたし。先日出版された、萩尾望都大先生の「一度きりの大泉の話」が心にぶっ刺さりました。

萩尾望都といえば、ご存じ、手塚治虫に次ぐ漫画の神。

その萩尾さんを含めた24年組がかつて大泉サロンという場所に集まっていたというトキワ荘的な話を聞いてはいたけど、これまであまり語られてなかった。

それをご本尊が話してくれるとあっちゃあ読まないわけにはいかない。そしたら、ツイッタのフォロワーさんが竹宮恵子の「少年の名はジルベール」を先に読むべき!とご指南くださったので、追従することに。

ほいみんは、小学生の時にポーの一族に出会って、それからはずーっと萩尾さんのファン。全集はもちろん持ってるし、今も最新作を楽しみにしてる。

竹宮さんは、最初に読んだ「風木」への拒否感が強くて敬遠してたんだけど、「地球ヘ…」でどハマリ。それから過去作とか沢山読んで、「風木」以外は楽しく読んでた。ただ、「アンドロメダストーリーズ」くらいから面白く感じなくなって、以降は読まなくなっちゃった。なので、2014年に刊行されてた「少年の名はジルベール」という本の存在自体も今回知った感じ。

で、この2冊を読んでみて、最初に思ったのが、なんか女子校の話みたいだなあってこと。あとは二人の作家さんの個性の違い。

竹宮さんは基本「我が我が」と自己主張が強い。対する萩尾さんはどちらかというと受け身的で俯瞰でものを見ている感じ。ちょっと違うかもだけど、竹宮さんが猪突猛進タイプで、萩尾さんはじっくりと周りを見回しながら歩くマイペースタイプな印象。大泉の描写も、竹宮さんは自分の生活空間だけが書かれてるけど、萩尾さんはアパートの周りのキャベツ畑とか増山さんの家の描写とかがあって視野が広い感じ。

こういうタイプの漫画家二人が同居生活するとか、まあ上手く行かないよね。それでなくても、20歳前後の意気盛んな女子達が集まって和やかなだけで過ぎるわけない。今より人間関係がのどかだったからか、漫画家を目指す子達が夢見がちなだけなのかわからないけど、早晩ぶつかるだろうことに想像力が及ばなかったのがこの巨匠お二人の悲劇だったのかも知れないな。

結局、お二人ともというか、竹宮さんは大泉サロンが解散するまで、萩尾さんはサロンが解散してから心に深い傷を負ってしまって、今日まで来た。特に萩尾さんはすごく傷ついて、もう大泉のことについては封印していたっていうのに、竹宮さんが本を書くことで大泉の封印を解かなければならなくなった。

竹宮さんにしてみれば、自伝を書く上で大泉サロンを省くことは出来ないし、そうとなったら萩尾さんのことも書かないといけない。それはわかるし、書き方としても、萩尾さんが悪いのではなく自分の葛藤としてるから、フェアな書き方だとは思う。萩尾さんの本は大泉に特化しているから、細かく書かれているけど、竹宮さんの著作は自伝の一記述だから大泉が解散した以降の萩尾さんについての記述はない。

「少年の名は…」だけ読むと、「竹宮さんでも、同業者意識したりするんだね」「大泉サロンは残念な終わりかたになってしまったけど、人生そんなこともあるよね」って思うし、他のエピソードとか(特に「ファラオの墓」製作秘話)が面白いからさらっと読めてしまう。

でも、竹宮さんが口火を切ったお陰で、その火の粉は萩尾さんに降ってくる。竹宮さんにとって「少年の名は…」は自分の人生の記録、時代を築いた少女漫画家としてのアーカイブなんだろうけど、大泉に触れることで萩尾さんに影響が及ぶことは考えなかったんだろうか?彼女はいまだに人間関係における想像力が欠けているのじゃ無かろうか。

萩尾さんにとって大泉の思い出は今も治りきっていない瘡蓋。封印を解くにはその瘡蓋をバリバリ剥がさなきゃいけないこと。まあ、竹宮さんは萩尾さんがそこまで大泉を引きずってると思ってはなかったのかもだけど、それにしても、萩尾さんのこと書くんだから出版前に了承得るのがリテラシーってもんじゃないのか。それとも、断られるのが怖くて出版物を萩尾さんに贈本するに留めたのだろうか。いずれにしても大人のやることじゃないだろう。

更に、大泉に関連しての取材に「萩尾さんがOKなら良いです」と言うのは、萩尾さんに決定権をまる投げしてること。そうしたらマスコミは萩尾さんにプレッシャーをかけるのは目に見えているよね?

そもそも、大泉での同居を持ちかけたのも竹宮さんだし、萩尾さんの傍にいるのがつらくて終わらせたのも竹宮さん。完全に巻き込まれ事故に遭ったのは萩尾さんなのに、竹宮さんはもう過去のことだからと竹宮さんは「マスコミが求めてるんだし、また会ってもいいのよ」言う。それも間接的に。

なんていうか、ずるい。

それで思い出したことがある。

わたしは一時期すごく竹宮さんに嵌まって、漫画だけじゃなくてエッセイから対談からいろんなものを読んだ。読んで、竹宮さんの人となりを知って、「あ、ちょっとこの人苦手だな」って思った。

竹宮さんは自分の構築する世界に自信を持っていて、それをアピールするのが上手い。わたしは「風木」にカテコライズされた少年愛の世界は苦手だったけど、少年独特の美しさとか儚さに憧れる気持ちはわかる。わかるけど、ファンは少年愛こそが至高であると認めなければいけない様な気分にさせられて、そこが不快だった。なんていうか、コントロールされてるような感じかな。

そこに気がついてからは、あまり竹宮さん個人には触れず、作品だけを楽しむようになった。たぶん、「Fry me to the moon」くらいまでは楽しく読んでたと思う。でもそのあとの作品がだんだん面白くなくなってきたんだよね。絵柄っていうかタッチが変わってきて、好みじゃなくなったっていうのもあるけど。

で、それまで作品が好きで目をつぶっていた、竹宮さんのいやなところが鼻についてきちゃって、ああ、もう読むのやめようってなったんだった。

 

たぶん、竹宮さんが自分大好きなのはそう言う性格なんだろうし、表現者として自分の世界に自信を持つのは正しいことなんだと思う。

でも、自分とその世界を守ろうとする余りに、周りへの配慮が足りてない気がする。

ファンに対して自分の価値観を押しつけたり(少なくとも、わたしは言葉の端々からそういうふうに感じた)同志ともいえる友人に一方的に三行半を突きつけたあげく、年を経てその離縁状を間接的に撤回してみたり。

まあ、私は勝手にそう思ってるだけだからいいけど、萩尾さんは本当に友達だった時期もあるわけでしょ?それで自分の都合で絶交したんでしょ?

竹宮恵子の自伝をアーカイブ化するのは、漫画史からしたらもちろん必要よ。でもさ~、本人の許可無くあれ書くのは反則だよ。萩尾さんに了承もらえないと思うなら、せめて死後に発表するくらいの気持ちでやって欲しかったわ。もうなんか、萩尾さんの「大泉の話」がつらくてさ。泣きそうになったもん。

結局、お二人ともまだまだ少女の繊細な心の持ち主なんだなってことはわかりました。竹宮さんは絶交した友達と仲直りしたいのに、自分から言えなくて外堀埋めようとするプライド高め女子。萩尾さんは自尊感情若干低めの心に波風立たせたくない孤高女子。

 

つうわけで、竹宮さんの自伝も萩尾さんの大泉は話も面白かった。

でもそのことで萩尾さんをないがしろにした竹宮さんに、わたしは非常にムカついた。以上が感想でございます。

願わくば、もう萩尾さんが過去にとらわれず、更に自由な創作活動ができますように!!!

あー早く萩尾さんの新作読みた~い!